結局「何をやるか」よりも「誰がやるか」に帰結する話。
「何をやるか」か「誰がやるか」
どちらがより大切か?恐らくアンケートをとると前者の方が大切だと答える人多いのだと思う。(それは裏付けるデータはないのであるが、、、)
でも、実際どうだろうか?自分としては前者の方が大切であるという理想は持ちつつも、現実の世の中は後者であることがほとんどであるという認識である。
最近の自分は作業用BGMの代わりとしてよくVTuber(いわゆる、ヴァーチャルYouTuber)の配信や動画を良く流している。VTuberの放送を見たことのある読者の方々は目の当たりにしたことがあると思うが、彼ら彼女らのライブ配信ではスーパーチャットが良く流れている。視聴者がお金を払うことによって、他の一般コメントとは差別化された方法で放送中に流れてくるものである。一般的な使い方としては何かを成し遂げた際におめでとうの意味を込めて贈ったり、また何かに挑戦している人に対して応援の意味を込めて贈ったりするものであると思う。もちろん、そのチャットの一部は配信者の懐に入るものである。
そんな玉石混交飛び交っているスーパーチャット。僕はある日ふと目に入ったスーパーチャットに困惑してしまった。
それは、配信者がお手洗いに行くというタイミングで飛び交うスーパーチャットである。僕はかなりカルチャーショックを覚えた。そんなことでお金が手に入る世の中があるのかと。他にもくしゃみをするだけで「くしゃみ助かる」のコメントと共に寄せられるスーパーチャットもあるらしい。まだまだ自分の知らないところでもこの様な訳の分からないお金の流れはあるのだろう。
僕は思った。やっぱり「何をやるか」よりも、「誰がやるか」な世の中というのは一理あるなと(この様な界隈はまれなものであると願いたいが)。でも実際の世の中からしたらこんなのは断片なのでもちろん全てそうとは思っていない。だたこういう世界もあるんだと。
また、もう一つ思った。VTuberへスーパーチャットをする人は一般的にオタクと呼ばれる人が多いと思う(断定しているが、データはない。偏見的であれだがこの仮定で話させてもらう)。彼ら彼女らオタクと呼ばれる層は「誰がやるか」の部分でオタクであるために何かしら偏見を受けた経験が多少なりともあるのではないかと。そのような人たちが結局は「誰がやるか」の部分で判断して、スーパーチャットを投げているのだろう。僕は驚いた。やっぱり「誰がやるか」なんだなと。
今回はかなり断片的な部分で「誰がやるか」が大切な世の中の様な話をしてしまった。しかし、結局はこちらに世界は帰結しているような気が非常にしなくもない。自分としてはこの原理で大体成りっている世界を見届けていくんだろうなと、そんなことを考えていた。月曜日の夜。。。
追伸
僕は人に迷惑をかけないのであれば好きにやりな派閥の人間なので個人の裁量で好きにやって下さいと思っています。
ではでは